第八話  「1枚の写真」

 藤本は意を決して、その部屋の呼び鈴を押した。
 応答は、無い。
  もう一度、藤本がチャイムに手を伸ばした時、隣にいた富沢がドアを三回、ノックした。正確には殴ったといっても良かった。
  千葉県市原市、内房線姉崎駅を降りてしばらく歩いた場所にそのアパートはあった。
「ここから五井海岸まではわずかの距離です。犯人は松本さんを拉致して、おそらく一度自宅に戻ったんだと思います。その途中に偶然テレビ中継をしている後ろを通ったんでしょう」
「それがあのビデオに残った映像か」
このアパートに向かう道すがら、藤本は富沢に説明して歩いていた。
 もう一度藤本がチャイムを押す。
「やっぱり、いないか・・・」
「本当にこの部屋が、そのカズさんの言っていた男の部屋なのか」
富沢が尋ねる。
「ええ、ここに間違いない筈です。宅急便の早瀬さんから聞いた住所ですから」
「その男は、つい最近までうちの稽古場に配達に来てたんだよな」
「松本さんが失踪する少し前に、辞めたそうです」
「カズさんと偶然再会したのは、稽古場に配達に来た時、か」
「そうです。単なる偶然だったんですが・・・」
そう言って藤本はもう一度チャイムを押した。
 表札には『青柳』と書かれていた。

                        ×       ×       ×

「久し振りだね。まさかこんな形で再会するなんて。大学の卒業公演以来かな」 空席の目立つ居酒屋で、小沢は満面の笑みを浮かべた。
「元気そうで何よりです」
そう言って青柳は、ジョッキを手にした。
「まさか稽古場の玄関で再会するとはね。今、運送会社で働いてるんだ」
「・・・ええ、まあ」
「いや、でも懐かしいなあ。青柳君と立った最後の舞台、大学の敷地に仮設テントを立ててやったあの芝居は昨日のことみたいに覚えてるよ」
「まだ小沢さんが芝居やってるなんて、正直驚いてます」
「ははは、そうだよ。俺のほうが先輩だったけど君のほうが俺の何倍もバイタリティーがあって、俺なんか圧倒されてたもんな。俺、いつも最後に君にやられる役だったし」
「あの頃は若かったから。今はもうそんな元気ないです」
「何言ってんだ、青柳君。また君の芝居が見たいよ」
と小沢は笑った。
「でも稽古場のある劇団なんて凄いですね」
と青柳は小沢の笑顔につられて笑った。
「うん、この劇団にトム君・・松本って人がいてね。その人とたまたま違う舞台でご一緒する機会があったんだけど、その時に『一緒にやらないか』って誘われたんだ。今考えればいい出会いだったと思うよ」
「そっか・・・。今、小沢さんは充実してるんですね」
「あ、そうだ。今度の4月の公演も観に来てよ。今度のはね、ミステリーものなんだけど、俺、天宮良蔵っていう重要な役をもらえるかもしれないんだ。この間チラシの撮影なんかもやったんだけど、その時トム君がね、あの劇場を五井沢村にしたいっていうんだ」
「ちょっと待ってください。五井沢村ていうのは何なんですか」
と、まくしたてて喋る小沢を青柳が制した。
「あ、ごめんごめん。五井沢村っていうのは作品の舞台となる地名ね。で、トム君はね、そこの景色を見たいっていうんだ。意味分かる?」
「ええと・・」
「つまり、役者がきちんと役作りをすると、舞台の上で実際にその世界が見えるっていう例えだよ。話は横転したバスの乗客が天宮家に避難してくるところから始まるんだけど、トム君はね、横転する前にバスを待っていた五井沢村のバス停も見たいって言ってたんだ。台本には無い部分だよ。本番を迎えたら見れるって」
「五井沢村のバス停が見たい、か」
「ねえ、必ず観に来てよ」
小沢は酔っ払って、興奮した口調になっていた。
「ええ、必ず行きますよ。必ずね・・・」
青柳はそう言って笑った。

                        ×       ×       ×

「その後、昔話に花が咲いて、彼もとても楽しそうにしているように僕には見えたんだ。それから何度か彼とは、青柳君とは飲んだりもした。けど、全然そんな素振りは見せなかった。それなのに・・・」
 夜が明けてしまった稽古場で、小沢はひとしきり語った後、顔を伏せて何も言わなくなった。富沢の吐いた煙草の煙が朝日に照らされてゆらめいていた。
「それなのに・・・何があったんですか?」
藤本が聞き返す。
「・・・あの大雪の日、彼から電話があったんだ」
「着信の残っていた午後2時15分、ですね」
「・・・いや、もっと遅かった。午後7時ごろだったと思う。僕も最初は何が何だか分からなかったよ。いきなり、『メンバーの松本を誘拐した』と彼が言った時は・・・」
「誘拐・・・」 富沢は呟いた。
「彼は多くを語らなかった。だけど僕に、今までにないような敵意に満ちた感情を持っているのだけは分かった。そして青柳君は二つのことを僕に要求してきた。このことを誰かに話したらトム君の命の保障はないということと、トム君が失踪したように見せかけろ、ということを」
「それでカズさんが雪の上に足跡を残して、失踪した本当の時間を狂わせたって訳か」
と富沢は言った。藤本が続ける。
「あの台本の書き置きも、小沢さんですか」
「・・・確かに雪の上に足跡を残したのは僕だ。だけど、あの書き置きはトム君自身が書いたものだと思う。・・・それ以来、何度か彼から電話がかかってきた。僕がこの事を喋ってないかどうか確認する為に」
「犯人は、青柳さんは、その電話で松本さんのことは何か言ってませんでしたか」
藤本の語気も荒くなっていた。
「無事だ、とだけ・・・」
小沢は力無く言った。
「ということは、誘拐するのは、トム君じゃなくても良かったのかも知れないな・・・」
富沢は新しい煙草に火をつけながら言った。
「どういう事ですか?」
藤本が聞き返そうとした時、富沢は立ち上がった。
「とにかく、今はトム君の行方のほうが先決だ。カズさん、青柳って男の住所を知ってるかい?」
「確か・・・千葉県の市原だったと思う」
「よし、まずはそこに行ってみるか。卓よ、その前に煙草とコーヒー買ってきてくれないか。さすがに徹夜がきつい年になってきたな」
そう言って富沢はまたゴロンと横になった。

                        ×       ×       ×

「本気ですか、謙二さん」
と藤本が不安そうに見つめる。そんな忠告を無視して富沢は『♪リリーの部屋♪』と書かれた表札のかかった扉をノックした。
「お前も役者だろ。いい芝居しろよ」
と富沢は、藤本の持ち物であった黒い手帳を取り出す。
 はぁーい、という声と共に扉が開き、ネグリジェを着て無精ひげをはやした男が姿を現した。
「警察だ」
と富沢は黒い手帳を一瞬ちらつかせて、間髪入れず男を押しのけて部屋に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと何よ。何なのよあんた」
富沢はその男に一切構わず、部屋の奥のガラス窓を開けて、ベランダへと進んだ。一瞬躊躇していた藤本を腹もくくった。
「実は、隣の部屋の青柳さんが重要な事件に巻き込まれている可能性がありますので、隣の部屋を家宅捜索しなくてはなりません。ご協力感謝します」
そう言って藤本も足早にベランダに向かった。
「ちょっと待ちなさいよ。この部屋は土足禁止よ。土禁なのよ!」
 わめき散らしているオカマを尻目に、富沢と藤本はベランダの柵を越え、青柳の部屋のベランダに乗り移っていた。藤本が窓に鍵がかかっているかを確認しようとした時、すでに富沢はガラスの一部に風穴を開けていた。
  ゆっくりとガラス戸の鍵を開け、部屋に入る。むっとする埃の匂いがした。
「当分の間、人がいなかった感じですね」
と藤本が辺りを見渡しながら言った。
「おそらく、あの雪の日以来、さすがの犯人もここには戻ってないのかも知れないな」
そう言いながら富沢は、わりと整頓されたその部屋の捜索を開始した。 藤本はふと、松本が掲示板に残したメッセージを思い出した。
「私は今、阿佐ヶ谷からはほど遠い場所に生息しているのですが・・・ほど遠い場所、か」
「掲示板ってやつか。その後に訳の分からない文章が続くんだよな」
富沢は、机の引き出しから見つけたアルバムをパラパラとめくりながら言った。
「ええ、首相がゴルフやってた時に起こった事件とか、誰かが『頭の悪い弱虫』って発言したとかっていうくだりですね」
「俺は新聞も読まねえし、だいいち日本にいなかったから何の事か分からねえんだが、最近のニュースなんだろ」
「ええ、首相がゴルフやってた時に起こった事件というのは、えひめ丸が原潜と衝突した事件で、『頭の悪い弱虫』っていうのは、沖縄の県知事あてにアメリカの・・・」
そこで藤本は言葉を止めた。
「どうした。アメリカの何だよ」
と富沢が尋ねる。
「アメリカ・・・そうですよ。この二つの事件に共通するのは『米軍』です。衝突したのは米軍の原子力潜水艦、県知事を中傷したのは沖縄米軍の幹部だった・・・」
「米軍、か」
「米軍基地のことじゃないでしょうか、松本さんが伝えたかったのは」
「トム君は米軍基地にいるってことか」
「いや、さすがにそれは無いかも知れませんが・・・」
そう言いながら藤本は本棚にあった地図を取り、関東一円のページを広げた。
「松本さんは横浜にいたんですよね。ということは・・・」
「厚木か、横須賀か」
「その地名を伝えたかったんじゃないでしょうか。といっても厚木にしろ横須賀にしろ、そんな広いエリアじゃ見つかりっこないし・・」 と言いながらも藤本は地図を目で追った。
「横須賀・・・厚木・・・ん、待てよ」
そう言って富沢は手に持っていたアルバムをめくり始めた。
「どうしたんですか」と藤本が尋ねる。
「確か、さっき・・・」
そう言いながら、アルバムをめくっていた富沢の手が止まった。
「これも単なる偶然かな」
 富沢の視線の先には、一枚の集合写真が貼られていた。

                        ×       ×       ×

「こんなものしかありませんでした。何かお役に立てればと思ったんですが」
そういって早瀬は、小沢に一枚の履歴書を手渡した。
「青柳さんと僕はほぼ入れ違いに入ったので、何か情報でもあればと思ったんですが・・・話もちょっとしかしたことないし」
「いや、ありがとう。写真は実は僕ももってないんだ。だから助かるよ」
そう言って小沢は青柳の履歴書を受け取った。
「そんな大変なことになっているなんて、全然気付きませんでしたよ。それで、あの・・・公演には、間に合うんですか」
小沢は努めて不安の表情を出さないように言った。
「すまないね、早瀬さんにも疑いがかかったりして。なあに、公演には絶対に間に合わせてみせるさ。ほかにも聞きたいことがあるんだ。稽古場の玄関で立ち話もなんだから、とにかく上がってよ」
と早瀬を中へ促した。
 その時、息を切らせて富沢が飛びこんできた。
「カズさん、これを見てくれ」
その後に藤本も続いて入ってきた。富沢が小沢に一枚の写真を手渡す。その写真には数人の男達が作業服を着て写っていた。そしてその中に、青柳の姿もあった。背景の建物には『横須賀○×製鉄所』という看板が立っている。
「これは・・・」 と小沢。
「青柳の部屋にあったんだ。以前青柳は横須賀で働いていた。そして青柳はトム君を連れて千葉県から横浜に向かった。おそらく市原市の自宅では危険すぎるからだよ。そして横浜を通って横須賀に向かおうとしてたんじゃないかな」
「そう言えば青柳さん、前の会社が潰れてうちに来たって言ってました」
早瀬はそう言って、履歴書を覗き込んだ。職歴欄に―横須賀○×製鉄所―とある。
「あ、そういえば、その時青柳さんが言ってた気がします。確かその製鉄所は、今は・・・」
「今は、何なんですか」
「今は・・・廃墟になってる、って」
「じゃあ、そこでトム君を監禁しているかも知れないのか」
「急ぎましょう」
と藤本が言った。
「電車より車のほうが動き易いな。卓、レンタカー手配しろ」
と富沢が言った。今度は早瀬が割って入る。
「ちょっと待って、そんな時間の無駄はいけませんよ。車ならここにあるじゃないですか」
と玄関先に見える自分の配達車を指差した。
「あれで行きましょう」
「早瀬さん・・・でも仕事が」と藤本が言った。
「いいんですよ、少々寄り道したって。僕の売りは『時間指定』に間に合わせないで配達することですから」
と早瀬は笑った。
「よし、行こう。横須賀に」
絶対に本番に松本を間に合わせてみせる。そんな決意をこめて小沢が言った。


つづく

           第九話「扉の向こう側」
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