第三章第二節   「転び」
           ―マサロ人の苦悩―

「転びの二人を含め、サマシタールの教えを分かっている者など一人もいません。ただ、楽になりたいのですよ。彼らは疲れているのです」
(第4幕、サラガヤ聖堂での夜の集会で、モキがタジムに転びのことを話す)

転びとは
日本で起きた宗教戦争はこの二人。左織田信長。
右本願寺。

日本でも例に困らないのだから、世界では一体ど
のくらいの宗教問題があるのだろうか
 仏教、キリスト教、イスラム教など世界には様々な宗教があるが、隠れキリシタンの踏み絵や、各地で起こる宗教戦争のように、宗教と政治の間で起こる問題も多い。サラガヤの国教であるサマシタールと十二神(注1)の教えも、祭司長ラビナスをはじめとした僧侶たちがマサロ人達を啓蒙しようと、日々集会を開いている。
 マサロ人たちにマサロ教といった宗教があるわけではないが、サマシタールの教えを受け入れるということは、権力者サラガヤに属する、屈するということになる。そうやってサラガヤ側についたマサロ人を、転じるという意味から「転び(注2)」と呼んだ。

注1― 十二神には、火の神マギ、風の神シダ―ル、地の神ダル、などが台本に登場。残り九つの神はみんなで考えみよう。水の神ウォーターとかね、そのまんまや。
注2― アクセントは上につく。「ころび」です。

ラクサーダの教え
 前項でマサロには宗教はないと記したが、マサロの中から生まれた指導者、ラクサーダの教えをマサロ人たちは敬愛していた。つまり「転び」になるということは、ラクサーダとの決別を意味するといってもよい。
 ラクサーダが刑場で民衆に語りかける。

マサロの民は麗しき民、争いを好まず、隣人の過ちをも許すことのできる気高い民なのです。
  
そんなマサロ人たちが転びという名のもと、サラガヤという権力の前に屈してしまうのか。様々な登場人物が交錯する中、マサロ人たちの心の動きはこの作品世界を大きく反映していると言ってもよいだろう。
次回は、最終回「末期の言葉」
                   ―夜明けの刑場―
                     です。お楽しみに。