第六話  「長いトンネル」

 彼女は目覚まし時計を止め、重い体をゆっくりと起こした。
 「飲みすぎた・・・肝機能停止、だ」
顔を洗うよりも歯を磨くよりも先に、彼女はノートパソコンを立ち上げた。これがいつもの日課なのだ。起動する時間を利用して身支度を整える。今日は日曜日、上石神井に向かう日である。
 「おはようございます。6Cながやじゅんこ本日1回目の書き込みです・・・♪にしようかな、(笑)にしようかな、それとも・・・」
鼻歌を歌いながら長屋は日課となったホームページの掲示板への書き込みを始めようとしていた。
 「うわあ、いっぱい書き込んであるな。こりゃレス書いてたら稽古遅刻だわ」
と書き込みをチェックする。
 「あ、初めての人がいる。ええと、投稿者、長本97・・・」
長屋の指が止まった。
 「長本97・・・。え、どういうこと?」
寝ぼけているのだろうか、彼女は一瞬訳が分からなくなった。 混乱した頭を整理するために、長屋は公演履歴のページをクリックした。
―97年、再演「桐の林で二十日鼠を殺すには」―キャスト・・・
キャスト 富沢謙二、片岡貴之・・・
 「やっぱりそうだ・・・」
長屋はノートパソコンを鞄に放り込んで、大急ぎで上石神井へと向かった。

                   ×       ×       ×

 「これは97年の再演の『桐の林』のビデオを作る時に、キャストとスタッフロールの背景として撮影する為に作られたものね。舞台の大道具ではないわ」
 「そうだ、私がメンバーになったばっかりの頃に、そのビデオを見せてもらったことがあるよ。トム君が編集したって言ってた」  
 宮岡と森口は、稽古場に戻っていた。横浜の家で見つけた五井沢のバス停を模した板を見て、比較的古いメンバーとなった宇田川と附田がそう説明した。
 「じゃあ、それがそのまま前の家の物置に残ってたってことだ。じゃあ単なる偶然かあ。この事件を解く重要な証拠だと思ったんだけどな」
そういって森口はため息をついた。隣で宮岡が附に落ちない顔をしている。
 「あのおばさんの証言も眉唾だぜ。だって松本さんはあの大雪の中、3時間で千葉から横浜まで移動したことになるんだろ」
森口は、さも自分が考えたかのように宮岡に説明した。
 「そうなんだけど・・・」
宮岡は何かが引っかかっていた。宇佐木が宅急便の早瀬から得た証言、黒いスカイライン・・・。松本がその車の助手席に座っているのがビデオに映っていた・・・。そして横浜の家に残された滞在の跡、流し台に残された数字の羅列・・・。
 「でもさ、夜の6時に千葉とか9時に横浜とかいう前に、稽古場に残された足跡は夜の7時以降についたものだったんでしょ。そこからおかしいじゃん」
と宇田川が言った。
 「そうね、矛盾しまくりね」
と附田も同調した。
 「足跡は誰か別の人のものだったとしたら・・・」
そう言った宮岡に宇田川が答える。
 「だってあの日は稽古してたのよ。メンバーの中しかそんなこと出来る人はいないよ。うちらがそんな事するはず無いじゃん」

                   ×       ×       ×

 「五井沢村のバス停が見たい・・・。小沢さんは知っていた。でも、あの日小沢さんはずっと稽古場にいた。だから黒のスカイラインを運転することも、勿論千葉や横浜に行くことも無理だった。でもビデオに映った松本さんは助手席に映っていた・・・」
藤本は稽古場の階段に座って考え込んでいた。そして自分の立てた仮説に早くも自信を失っていた。
 「そもそも小沢さんには動機が無い」
そして藤本は先輩を疑ったことに後悔を覚え始めていた。
 「松本さんが自らの意思で失踪したのでは無く、何者かによって、つまり黒のスカイラインを運転していた人物に誘拐されたのだとしたら、あの日稽古場にいたメンバーの中に犯人がいるはずがないんだ・・・」
 その時、けたたましく玄関の戸が開いて、長屋が息を切らせて飛び込んできた。
 「卓ちゃん、電話回線・・・」
そう言って長屋は玄関でノートパソコンを開き始めた。その異変を聞きつけてメンバー達も集まってくる。
 「誰か、今朝ホームページの掲示板見た人いる?」
 「日曜の朝に掲示板見る人なんて純ネエくらいだよ」
と松本雄介が答える。
 「この書き込み、トム君じゃない?」
そういって長屋は掲示板をクリックする。そこには『長本97』という投稿者名の書き込みが表示されていた。送信時間は前日の深夜である。

 『こんにちは。初めて書き込みします。
阿佐ヶ谷での公演、とても楽しみにしています。私は今、阿佐ヶ谷からほど遠い場所に生息しているのですが、それはさておき、最近大きな事件が多いですよね。首相がゴルフやってる時に起こった事件とか、誰かが「頭の悪い弱虫」って発言したとか。「よろしいか」って説教したくなりますよね。
それから公演のチケットは携帯からは予約できないのですか。携帯もどんどん便利になって10コのボタンでメールが送れたりしますもんねえ。
4月には必ず阿佐ヶ谷に参りますよ。それでは。』

 「97年の再演で長本を演じたのは、松本さんだけど・・・」
と藤本が半信半疑で言った。長屋が応える。
 「それだけじゃないよ。途中の―「よろしいか」って説教したくなる・・・―ってくだり、これは・・」
 「前回公演の松本さんが演ったラビナスの決め文句だ」
 「そうよ。これが全部偶然だと思う?それにこの文面。一見普通だけど、こんな書き込み、不自然だと思わない」
 「でも、何でそんなまどろっこしい書き方するのさ。それだったら『松本だ、今どこそこにいる』って書けばいいじゃん」
と山田が言った。
 「私が思うに・・・例えばトム君は誘拐されてて、犯人に分からないように私達にメッセージを伝えたかったとしたら?長本97って言われれば私達はすぐ分かるけど、普通の人が見たらただのハンドルネームだと思うわ」
 「でもどうやって掲示板に書き込むのさ」
 「犯人の持っているパソコンか携帯から送ったんじゃないかしら。普通のメールや、それこそ私達に電話をかければ履歴が残るから犯人に見つかってしまう。だから・・・」
 「そうか。掲示板なら送信した後に履歴が残らない。犯人に見つからないで俺達にメッセージを送れるんだ」
 「万が一、犯人がホームページを見たとしても、トム君が送ったものとは思わないわ」
長屋はようやく息を整えて、コートを脱ぎ始めた。
 「お水頂戴。ここまで走ってきたから」
松本雄介が掲示板の文面を覗き込みながら考えこんでいる。
 「だとしたら、この文面はどういう意味があるんだろう。時事ネタなんかも載ってるし・・・」
 「純ネエの言ってる通りだとしたら、これは犯人に分からないように松本さんが何かを伝えたかったんだよね」と山田。
 「携帯に10コのボタン?当たり前じゃないですか。何の意味があるんだろう」
と、メンバー全員が玄関で考え込み始めた。
 「とにかく、奥へ行きましょう」
と長屋がノートパソコンを手にした時、再び玄関の戸がけたたましく開いた。
 「こんにちはー。宅急便でーす」 と早瀬が顔を出す。
 「あれ、もう1時回ってますよ。午前中指定じゃないんですか」
と小沢がいたずらっぽく言った。
 「へへ、すいません。今日寝坊しちゃって11時出社しちゃったんで」
と早瀬は舌を出した。
 「何か仲いい感じですね。また知り合いなんですか?」
と宇佐木が小沢に尋ねる。
 「いえ、最近このルートに配属された新人ドライバーですよ」
と早瀬が笑いながら答えた。
 「今日の荷物は大きいんですよ。ちょっと手伝ってもらえますか」
 「大道具の資材かな。発注してた残りの分だろう。よし、みんなで運びこもう」
そういって小沢は足早に早瀬のトラックへ向かった。男連中がそれに続く。  
 藤本は聞き逃さなかった。
 「この前、早瀬さんが来た時に、確か・・・」
稽古場に戻ろうとした宇佐木を呼び止める。
 「ねえ、さっきドライバーに聞いてたことなんだけど・・・」

                   ×       ×       ×

 30分後、早瀬は稽古場の休憩室で制作補天田晶子の入れたお茶をおいしそうに飲んでいた。
 「すいません、手伝ってもらった上にお茶までごちそうになっちゃって」
 「どうですか、劇団の稽古場は。入ってみると案外普通でしょ」
と天田が尋ねる。部屋には二人しかいなかった。隣の稽古場から稽古中の声が漏れ聞こえてきていた。
 「いやいや、やっぱりすごいですよ。緊迫した空気っていうんですかね。伝わりますよ」
 「仕事は大丈夫なんですか。あまりお引き止めしたら次の配達が遅れちゃうんじゃ・・・」
 「今日はここで終わりです。だからご迷惑じゃなければ、もう少し見学していっていいですか」
 「そうなんですか。じゃ、ゆっくりしていってください」
そう言って天田は、お茶のお代わりを用意を用意し始めた。
 「時間があるのなら少し聞きたいことがあるんです。早瀬さん」
いつの間にか背後に立っていた藤本の声に二人は面食らった。
 「何ですか。この間もいろいろ聞かれましたけど」
と早瀬が応じる。 いつになく真剣な表情の藤本を見て、天田もただならぬものを感じていた。
 「以前、前の担当者の方のお話をしたことがありますよね」
 「ええ、ありましたね。青柳さんのことでしょ」
 「僕もその人の記憶は無いんですが・・・」
 「確かもう一人の方も・・・今日手伝ってくれた、小沢さんでしたっけ。あの人も覚えてないって言ってましたね」
 藤本は稽古場から響いてくる声が気になってしょうがなかった。何人もの役者の声に混ざって、ひときわ目立つ渋い声が。  
 稽古場の廊下で宇佐木は藤本にこう言った。
―また知り合い?って聞いたよ、小沢さんに。だって前の担当の人が配達した時にたまたま小沢さんが出て、『久し振りだなあ』とかって会話してたんだもん。古い友人だったみたいよ―
 「早瀬さん、まだいたんだ」
と渋い声で笑いながら、小沢が休憩室に入ってきた。その後ろにぞろぞろとメンバーが続く。休憩に入ったようだ。
 「その人が何か?」早瀬が藤本に尋ねる。
 「いえ・・・その話は、また」
そう言った藤本の横で、軽快な電子和音が鳴り響いた。
 「あ、俺のだ」
そう言って松本雄介が慌てて携帯を取ろうとした時、その着メロは消えてしまった。
 「せっかちな人だな」 と山田が笑う。
 「これはね、メールの着信音なんだ。ちなみにマイ作曲。あ、カヨちゃんだ。返事書こっと」
 「何だよ、女か?」 と山田がひやかす。
 「うるさいなあ、今は休憩時間だろ。俺はねメール早打ちの達人なんだ」
そう言って松本雄介はせっせと指を動かし始める。
 「このボタンさばきがね・・・・・・あ」
 「何だよ、指でもつったのか」
雄介が突然真顔になる。
 「森口さんは?あづさでもいい、いない?」
 「また車借りて出てったよ。もう一度聞き込みとかしてみるって」
 「松本さんの横浜の家で見つかった暗号、あるかな」
 「あるよ、控えたのが。でもこれ暗号なの?」
と山田が雄介に数字の羅列された紙切れを手渡した。
 「そうだよ、携帯には10コのボタンがあって、それでメールを送るんだ」
そう言いながら雄介は、紙切れを見ながら何やら携帯に打ち込み始めた。
 「・・・・あ!そっか、数字の「1」はア行、「2」はカ行、一度「1」を押せば「あ」二度押せば「い」。松本さんが掲示板に書いた―携帯の10コのボタン―って意味はこれだったのか」山田も雄介の携帯を覗き込む。
 「これであの暗号を打ち込んだらどうなる?」
藤本が雄介を急かす。
 「・・444411、と。これは・・・」
 「どうなったの?」
メンバーが雄介に注目した。
 「あの数字を文字に置き換えると・・・『ごぜんちゅうしてい』になります」
 「午前中、指定・・・」 小沢が呟いた。
一同の視線は、一点に注がれた。事態がよく飲み込めなていないその男は、きょとんとした顔をしている。
 「午前中指定、ですか」 早瀬は言った。
  窓の外に、もう季節はずれと言っていい粉雪が、舞い始めていた。

                        ×       ×       ×

 「夜の海岸で雪の中、夜景でも眺めるかい」
いつになく芝居じみた声で森口は尋ねた。
 「そうね、そうしよっか」
さすがに宮岡も疲れていた。松本の足取りを掴みかけたところで振り出しに戻った、そんな気分だった。
 「どっちに先に行く?千葉と横浜。夜景なら横浜って感じだね」
薄暗いトンネルの中を、いつものレンタカーを走らせる。今日は珍しく森口が運転していた。助手席で宮岡が地図を広げている。突っ込みがないと張り合いがない、森口も冗談を飛ばさなくなった。
 「大雪、か。確かにあれだけ積もったら、チェーンつけても大変だわな」
 「そうね。やっぱり横浜のおばさんの証言はただの偶然だったのかな・・・」
 「あの暗号は?あーあ、稽古場で誰かが解読してくれてたりしないかな。解読したらさ『おれは今広島にいる』とかになったりしてね」
 「だといいけど・・・」
 「昔さ、子供の頃、トンネルの中に入ると『暗い暗い森の中、いったい何がいるのかな』ってトンネルを出るまでに何回言えるか、っていう遊びやらなかった?」森口なりに宮岡を元気づけようとしているようだ。宮岡もそれがありありと分かって苦笑いした。
 「うちの地方じゃ、『林の林のさらに奥、どんなオバケがいるのかな』だったわよ」
とっさに作った話にしては語呂がいいな、と宮岡は思った。
 「へえ、そうなの。あるんだねこういうのにも地方色が」
と森口は素直に感心している。
 「あれね、今考えると肺活量と活舌のいい練習になったと思うよ。あの頃から役者の道を歩み始めてたんだな、俺」
 「それにしても長いわね、このトンネル。こんなに長いと息続かないでしょ」
 「さすがにね」
と森口も笑った。
 「そう言えばトンネルの中は当然雪は積もらないんだよな。あ、こういうのはどう?松本さんを乗せた車は長い長―いトンネルを通ってた。だから大雪でもすいすい移動できた」
 「・・・・・・」
 「ごめん冗談。・・・にもならない馬鹿な話」
せっかく上向きだった車内の空気も一気に冷えこんでしまった。
 「・・・どっちに行く。千葉と横浜」
 「そうね・・・」
と宮岡が地図を眺める。
 「暗い暗い森の中―、いったい誰がいるのかなー・・・暗い暗い森の・・・」
森口が何度かそのフレーズを繰り返した時、宮岡が口を開いた。
 「長いトンネル・・・」
 「は?」
 「トム君が映ってた五井町の五井海岸。そのまま16号線を東京湾ぞいに南に走れば・・・」
と宮岡は地図を追い始めた。
 「どうしたの」
 「市原市、袖ヶ浦市、そして木更津市に繋がる」
 「それが何」
 「長いトンネルがあれば短時間で千葉から横浜に行ける・・・」
 「だから悪かったって」
 「そうね・・・実際の足取り通り千葉から行きましょう。千葉から横浜に、いや川崎に」
 「何言ってんだよ」
 「あったのよ、長いトンネルが。千葉県と神奈川県を、川崎と木更津を繋ぐ長い長いトンネルが」
 「・・・あ」
 「東京湾アクアラインよ。行ってみましょう」
       
つづく

次回は、第七話「ホタルおじさん」です、
お楽しみに。

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