第一話  「雪の日曜日」

 上石神井にある劇団の稽古場は、朝から雪に覆われていた。いつもなら九時から始まる稽古もこの日はさすがに集まりが悪く、十時を回ってもまだ人数はまばらだった。
「電車が止まっている訳じゃないだろ。気持ちの問題だよ」
と、珍しく早く来ている藤本卓が甲高い声を上げている。
「あ、また降ってきた」
いつも時間通りにくる加藤祐子は、休憩所の窓から薄曇った空を眺めていた。
「何か、嫌な予感がする」
そう言って彼女は稽古場へと消えていった。

                   ×       ×       ×

 稽古場ではダンスレッスンが始まっている。時計は十一時を回っていた。徐々に集まってきたメンバーの熱気で、稽古場の窓ガラスが結露で曇り始めていた。
「そういえば松本さん遅いなあ」
同姓の松本雄介が連絡ボードを眺めながら呟いた。
「遅刻の連絡は入ってないよ」
松本雄介と同期の山田康弘が気の無い返事を送る。
「あの人、基本的には稽古嫌いだからな」
「いえてる。人にはああだこうだと厳しいくせにな」
レッスン用の音楽が流れる中、後輩二人の先輩パッシングが盛り上がり始める。
「ダンスはてんで駄目なくせに、本人はうまいと思ってるからな」
「こないだなんか、役者はのどが命とか、煙草吸いながら言うんだぜ」
「訳分かんねえな」
背後に立つ人影に気付かず、二人の悪口はますますエスカレートしていく。
「何が訳分かんないって」
「・・・・あ、松本さん。おはよう、ございます」
頭に被った雪を払いながら、松本陽一が笑っている。後輩の悪口は聞き慣れているようだ。
「遅刻して申し訳ない。雪のせいじゃないんだけど、ちょっとヤボ用でね」
そう言いながら松本は、更衣室へと向かっていった。  
  稽古場には十数人のメンバー達がダンスレッスンを続けている。この時、松本陽一の異変に気付いた者は一人もいなかった。いつもと変わらぬ光景、いつもと変わらぬ日曜日の稽古場だった。ただ一つ、東京には珍しい量の雪が降っていたという事を除いては・・・。

                   ×       ×       ×

 午後七時。4月公演「桐の林で二十日鼠を殺すには」の稽古も、近々キャスティングが発表されるということもあって、にわかに緊張感が漂い始めていた。旗揚げ公演の再演ということもあって、作・演出の久間勝彦の視線もいつもより鋭く感じられる。
 メインとなる一階の稽古場では、シスター瀬野と天宮良造の二人のシーンの抜き稽古が行なわれていた。空いた役者達は思い思いに二階の防音室、地下室などに散って自主稽古を始めている。この時、メンバー達は稽古に夢中になるあまり、いつも聞こえてくるはずの声が聞こえないことにも気付かないでいた。
「五分間休憩して集合」 「○時からミーティング開始」といった、稽古場を取り仕切る松本陽一の声を。

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 「地下室にも防音室にもいません。もちろん更衣室にも」
午後九時。稽古場に集合したメンバー達は、ようやくその異変に気付き始めていた。
「着替えは?」
「そのまま置いてあります」
「靴は?」
「あ、見てきます」
そういって、宇佐木彩加は玄関に走っていった。
「誰か、何か聞いてないのか」
普段は温和な久間も、さらに激しさを増した雪のことを考えると、苛立ちを隠せないでいた。
「この雪の中、稽古着のまま出て行ったというのか」
「最後にトム君を見たのは誰」
と宇田川美樹がメンバーに尋ねる。古いメンバーは松本のことをそう呼ぶ。今では少なくなっていた。
「皆、バラバラで稽古してたから」
と松本雄介。
「どっか、買い物にでも行ってんじゃないスかね」
と山田。
「とりあえず電車が止まる前に、みんな帰ろう」
と、小沢和之がメンバーの心配をし始めた時、
「これ、松本さんの台本じゃないですかね」
と新人の末永和進が、台本を持って稽古場に入ってきた。
「あ、何か書いてある」
と表紙を指した。
「何て書いてあるんだ」
全員の視線が松本の台本に注がれた。
「・・・五井沢村の、バス停が見たい・・・」
「確かにトム君の字ね」と宇田川。
「ただの落書きじゃないスかね」
「演技プランか何かのメモかも」
「いや、トム君は台本に何も書かない人だよ。以前久間さんに怒られているのを聞いたことがある」
と小沢。
「それに、表紙にこんな大きな字で・・・嫌な予感がする」
そう呟いた加藤祐子の隣で、萩巣千恵子が不思議そうな顔をしている。
「でも、五井沢村っていうのは実際には・・・」
「ちょっと来て下さい」
萩巣の声をかき消すかのように宇佐木の叫び声が玄関から聞こえてきた。稽古場に緊迫が走る。
「ちょっとこれ見てください」
玄関に集まったメンバー達の目に飛び込んできたのは、玄関先から表の路地へと続く一本の足跡だった。
「みんなの足跡はこの雪でもう消されてるはずです。この足跡はここ一、二時間の間に出来たものじゃありませんか」
「日が暮れてから、稽古場から出た奴はいるか」
誰も何も言わない。
「それに、この足跡、入口から道路への一本しかないし・・・松本さんの足跡じゃないかと」
「ていうことは逆に、一、二時間前に出て行ったってことは、ほんとにどっか買い物にでも行ってるのかも」
と山田が不安をかき消すように言った。
「あんな薄着の稽古着でか」
「上着から何から全部、更衣室に残ってました」
と宇佐木が言うのと同時に、末永がその上着を持って現れた。
「・・・財布も、入ってます」

                   ×       ×       ×

 日付が変わった午前一時。朝から降り続けた雪は、吹雪になっていた。
「・・・五井沢村のバス停が見たい」
交通が遮断され稽古場で夜を明かすことになったメンバーの誰かが呟いた・・・。       

つづく


次回は、―「ビデオテープ」― です、
お楽しみに。

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