第4話 賭事



崎山は彼に声をかけた・・・

 崎山は叫んでいた。目の前には海が広がっている。東京のはずれにある、競艇場。人ごみにまぎれ、現実を忘れようとするかのように崎山はボートを見つめ、叫んでいた。
 日曜日の競艇場は人で溢れ返っていた。誰もが一枚の券に様々な思いを込め、ボートを必死に目で追っている。青い空。湧き上がる歓声。肩を落とし呆然と立ちつくす中年男性や顔中皺だらけにして笑う老人。アイドルを見つけたかのようにはしゃぐ若い女性達。こんなにごみごみした世界にもたくさんのドラマがあるんだな、と崎山はちょっとセンチメンタルな気分になっていた。
 結果は、散々だった。ちゃんとリサーチしてくるんだったな。ただのごみになってしまった舟券を握りつぶし、ごみ箱に投げ捨てた。

 彼と出会ったのも競艇場だった。崎山は、普段あまりギャンブルをやらない人間なのだが、なんとなく気晴らしをしたい気分だった。かといって米倉のように、タバコの煙と大音響の中で黙々とパチンコをする気にもならない。どうせならさわやかな方がいいよな。 競艇なら外だし海だし、悪くなさそうだな。役者探しに奔走して溜まっていた疲れを癒すために、崎山は初めての競艇場へ足を踏み入れた。その日もちょうど、今日と同じさわやかな晴天だった。空と海の境目が分からない…とはとても言えないが、それでも久しぶりに太陽の下でのんびりと過ごすのは気持ちいいものだった。
 初めて彼に会った時、彼はとても生き生きとした顔でボートを見つめていた。まだ22,3歳だろう。手すりから身を乗り出し、丸めたスポーツ新聞を頭の上でぐるぐると回す。まるで自分がボートに乗っているかのように興奮していた。競艇は全く初心者の崎山には、なぜ彼がそんなに夢中になるのかいまいち分からなかった。ただ、子供のように無邪気にはしゃぐ彼に興味を抱いていた。 「ねえねえ、君はよくここに来るのかい?」
大きなどよめきの後、人々が出口へ向かう中、崎山は彼に声をかけた。
  
「へー、じゃあおじさんは芸能界で働いてるんですね」
ソフトクリームをほおばりながら、彼は珍しそうに崎山を凝視した。
「うん、まあね。でも最近なんだかんだと疲れちゃってね。それでちょっと、気晴らしに来たというわけだよ」
彼の名は末永といった。どことなく童顔で、話し方も生真面目だ。競艇場にはあまりそぐわない感じだった。体型も華奢で、綺麗に並んだ白い歯が印象的だった。
「おじさん、どの券買ったんですか」
そう言って末永は崎山が握っていた券をのぞき込んだ。
「あ〜、だめですよ、これじゃあ。ちゃんとリサーチしてこないと。ほら、僕はいつもこれ買って研究してるんですよ」
と丸められたスポーツ新聞を広げた。
 崎山は今日、この競艇場へ来たことに運命を感じ始めていた。これまで役者といえば芝居の世界で修行を積んできた人間、と思い込んでいたが、一概にそうとは言えない。いわゆる「シンデレラボーイ」だって世の中にいるはずだ。全く経験がなくても実は天性の素質に恵まれている奴だっている。末永との出会いは崎山にそれを予感させていた。
「君は、芸能界とか興味ない?」
スポーツ新聞を広げ、懸命に競艇の講義を聞かせる末永の言葉をさえぎった。末永は、きつねにつままれたような顔をしている。
「今日君とここで知り合ったのは、偶然じゃないような気がするんだ。君はきっと何かを持っている。私にはわかるんだ。私を信じて芸能界にチャレンジしてみる気はないか?」
こうして素人をスカウトするのは初めてだった。人は「目を見れば分かる」とよく言うけど、あれは本当だな。ボートを見つめている時の彼の目は本当に生き生きしている。こういうのをオーラと呼ぶのだろう。例え経験がなくとも最初は輝いてさえすればいい。経験なんて後でついてくるもんな。
「僕にできるんですかね?」
末永は一瞬不安な目をした。だが、崎山はその不安を一掃するかのように、きっぱりと言い放った。
「私が、君を育てる」

 未経験者だからといって、何もかもを一から詰め込む気は、崎山にはなかった。まだ擦れていないフレッシュな感覚を、末永にはいつまでも持っていて欲しかったからだ。基本的なことだけは、知り合いの養成所に頼んでたたきこませた。最初は失敗してもいい、とにかくじっくりと時間をかけて育ってほしい、それが末永への願いだった。
 見知らぬ世界に突然飛び込んだ末永が、気後れするのではないかと、崎山も最初は不安だった。だが、末永は意外にも楽しそうにレッスンを受けている。休みの日にはもっぱら競艇場に足を運び、気分転換する。そういう日々が3ヶ月ほど続いた。特に大きな仕事は来なかったが、地道にエキストラの仕事をこなし、平凡に時は過ぎていった。

 ある日、缶コーヒーのCM出演者募集の広告が崎山の元に送られてきた。一般公募ではなく、プロダクション所属者限定だという。崎山は、ようやく仕事にも慣れ余裕を見せ始めた末永を、迷うことなく受けさせることにした。
 翌日、崎山は末永を事務所に呼んだ。オーディションの話をもちかけると、末永は二つ返事でOKしてくれた。日時と場所を伝えると、末永はレッスンへと出かけていった。オーディションまで2週間しかなかったが、崎山は特別何かを仕込むつもりはなかった。当日までいつも通りの生活をして、会場で末永の自然な魅力が出ればそれが一番いいと考えたからだ。  
 
 オーディション前日。いつものようにレッスンを終えた末永が事務所に戻ってきた。
「おつかれさま。調子はどうだ?」
末永は笑って答えた。
「絶好調ですよ。明日は絶対勝ち取ってきますからね」
「なかなかいい意気込みだね。あまり肩に力入れるなよ。終わったらここに戻ってくるように。じゃ、健闘を祈ってるから」
末永ははい、と大きな返事をして、事務所を後にした。
  翌日は晴天だった。絶好のオーディション日和だな。崎山は事務所の窓から空を見上げ、末永が自己PRをしてる場面なんかを想像していた。オーディションは12時から。今ごろ奴は控え室で緊張していることだろう。崎山は受話器を取り、小さく首を振ってすぐに受話器を置いた。励ましの言葉の一つでもかけてやりたいが、直前はそっとしておく方がいいだろう。崎山はまた空を見上げ、良い結果を祈りつづけた。  

 ふと気付くと、崎山は事務所のソファーに横になっていた。時計を見ると7時を過ぎている。そろそろ末永が帰ってくる時間だ。崎山は起き上がると、軽く寝癖のついた髪を手でそろえた。
 しばらくすると、階段をどたどたと駆け上がってくる足音がきた。末永だ。あの足取りからするともしかして…
「社長!社長〜!!」
勢いよくドアが開くと、そこには息を切らし、満面の笑みで末永が駆け込んできた。
「社長!!やりましたよ!勝ち取ってきましたよ!!」
…この台詞を俺はどれだけ待ち焦がれていただろう…今日まで長い道のりだったなあ。ようやく、この崎山プロダクションがメジャーになる日がやってきたんだ…
「今日のレース、すごかったんですよ!僕もう興奮しちゃって。3万円の万舟券で…僕が賭けたの2000円。…で、ろく、ろく、60万も返ってきちゃったんですよー!!」
よほど興奮しているらしく、口が回っていない。途切れ途切れにその喜びを伝えようとしているが、言葉になっていない。一通りしゃべり尽くし、末永は呆然と立ちすくす崎山にようやく気がついた。
「あれ?社長、どうしたんですか、ボーっとして。喜んでくださいよ。昨日、健闘を祈るって言ったの、社長じゃないですか〜。この調子で、来週のオーディションも勝ち取ってきますからね!!」
「…来週も万舟券とっておいで。ははは…」
力なく笑うと、崎山は末永を残し、何も言わず事務所を出て行った。

「俺の人生、ギャンブルだ…」
街を覆う月の灯りに照らされ、崎山の頬がさびしく光った。

つづく