崎山は考えていた。この3年間、右も左も分からずにこの世界でやってきたものの、どうしたらあの頃の自分に胸を張って今の自分を見せられるのか、そして、これからの自分の姿をはっきりと思い浮かべることができるのか…

日本は男性アイドルブームの全盛期だった。
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その頃、日本は男性アイドルブームの全盛期だった。週に何本もの歌番組が放送され、小さな画面の中では所狭しと甘いマスクのアイドル達が、右へ左へ歌い踊っている。スピーカーからは、アイドル達の歌声よりもはるかに大きな黄色い歓声が、割れた音で響いている。崎山は、漬物を箸でつまみながら画面を一瞥した。
「オレのほうがかっこいいじゃん…」
何言ってんのよ、あんたとじゃ比べ物になんないわよ、母親は味噌汁を運びながら独り言のつもりだった崎山の言葉を制し、鼻で笑った。
崎山はふてくされた顔でボリボリと大げさに漬物を噛み砕いた後、またつぶやいた。
「ちきしょう…見てろよ。オレだっていつかきっと…」
アイドルの曲が終わり、更に大きな女の子達の歓声でかき消されたその言葉は、崎山の心の中で何度も何度も響いていた。
気付くと、まだニキビだらけの顔でテレビの中のアイドル達に嫉妬していた頃から、何十年もの月日が流れていた。あの日、漬物と一緒に飲み込んだ独り言は、今でもしっかりと心の中で響いている。
崎山がこのプロダクションを立ち上げたのは3年前の春だった。それまで、芸能界でも中堅どころのプロダクションでいまいちパッとしない若手芸人コンビの付き人をしていた。地方回りや小さなイベント会場での前座がそのころ付き人をしていた芸人達の主だった仕事で、崎山にはこれといって芸能界で働いていることの優越感や業界人としてのプライドもない毎日だった。あの日「いつか必ずオレもこのアイドル達みたいにビッグになってやるんだ」と誓った思いは、そんな形でしか実現されていなかった。たまの休みに田舎に帰ると、七三分けにした同級生達に「いいよなあ、崎山は。芸能人にたくさん会えて」と羨ましがられていた。そんなことを言われるたびに、あの頃の自分に笑われている気がして焦るばかりだった。
芸能界なんて一握りの人しか大きくなれないシビアな世界だ、崎山はもう重々分かっていた。自分が付き人をやっている芸人だって、つまらないコントを1個作るのに何日もかかりっきりだ。出来上がっても人目に触れることはほとんどない。まばらにしか人がいないようなデパートの屋上で、パイプ椅子相手に披露するのがやっとだ。こんな付き人生活をしていて、本当に自分は大きくなれるのか…それでもこんな生活にしがみついている自分が居ることも否定できずにいた。
ある日の朝、いつものように崎山が事務所に行くと、見慣れない男性が笑顔で社長と談笑していた。
「あ、崎山君おはよう。ちょっとお茶入れてきてくれるかな」
社長は崎山の顔を見るなりそう言って、また男性と話し込み始めた。崎山は給湯室でお客さん用の湯飲みを洗いながらシンクに顔を映した。すっかり肝臓が悪そうな色になってしまった自分の顔が、流れていく水で泣いているように見えた。
「そりゃ、泣きたくもなるよな…」
深いため息を付いて、ポットのお湯を急須に入れた。
黒いスーツを着たその男性は、どうやら社長の大学時代の同級生のようだ。二人は学生時代の思い出話に花を咲かせて何度も大きな笑い声を上げていた。ネタあわせをするから明日は朝から事務所に来てくれ、と言ったあいつらは来る気配もない。することもなく暇を持て余していた崎山を見かねたのか、社長は崎山を自分のデスクへ呼んだ。
「ユーにも紹介しよう。この人はね、ミーのキャンパス時代のフレンドで、ジョニーさんというんだ。君も知ってるだろう、ほら、ジョニーズ事務所の…」
崎山は驚いた。ジョニーといえば、あの時、崎山をこの世界へと引きずり込むきっかけになった男性アイドルグループを輩出した、老舗プロダクションの社長じゃないか!?
「ミーと彼はね、ちょうど同じくらいの時期にプロダクションを作ったんだ。ミーはお笑いが好きだったけどねえ、彼は歌とダンスがベリーベリーラブだったんだよ。最初はお互い誰でもいいから事務所に引き込んでたんだけどねえ、彼は歌とダンスがベリーベリーグッドの男の子達ばかりを集めてどんどん売り出していったから、今じゃこの違いだけど」
社長は思い出話を楽しむ老人のように目を細めて笑った。ジョニー氏は一通り笑った後、真っ直ぐな瞳でこう言った。
「僕は歌とダンスにどうしてもこだわりたかったんだ。一時期、回りからは頑固すぎるって叱られたもんだよ。でも、今ではそのこだわりがうちの事務所のウリだからね。これからもこだわりつづけていきたいと思ってるんだ」
崎山は身震いをした。そうか、こういうこだわりもあるんだ。オレは今まで自分がビッグなることばかり考えてきたけど、方法は決してそれだけじゃないんだ。あの頃の自分の思いを実現する方法は…。
あれから3年。「崎山プロダクション」と書かれた小さな看板を掲げた街中の小さな事務所で崎山は社長をやっている。この3年、ありとあらゆるタレント達が入っては消えていった。芸能界なんてこんなもんだ、ジョニー氏と出会う前の、付き人をやっていた頃となんら変わらない自分に戻り始めていることに気付くのは簡単だった。
「こだわり。こだわりか…オレは…何にこだわっていけばいいんだろう?」
ふっとため息を付きそうになった瞬間、事務所のドアホンが鳴った。
「郵便です」
きびきびとした配達員は崎山に、何の変哲もない白い封筒を手渡すと、急ぎ足で事務所を後にした。バイクが遠ざかる音が聞こえる。履歴書在中。また、オーディション希望者からか…こうやって自分から送りつけてくる中にロクなヤツはいないんだよな。募集もしてないのに。3年前より更に肝臓が悪そうに鳴った顔をゆがめながら、崎山は封筒を乱暴に開けた。履歴書に目を通す。
「…そうか…そうか。オレがこだわっていくとしたら…」
事務所の窓からはゆっくりと赤い陽が差し込み始めている。肝臓の悪そうな崎山の顔が、夕日で赤く染まっていた。
つづく |